石見銀山を紹介しま~~す、ニャン。
世界遺産だじょ! 知らないって、あんたもぐりでしょう。富士山がユネスコの世界文化遺産に正式登録されるずっとまえに世界遺産だニャン。格がちがうじゃん。
では、紹介の始まり、始まり
動画は、素人のデジカメ撮影で手ぶれ等お見苦しいかもしれないです。申し訳ございません。
石見銀山せんべい 16枚 【森田】【お土産】【おみやげ】【島根】【常温】 価格:525円 |
「世界遺産 石見銀山遺跡」の価値や魅力、全体像を分かりやすく紹介する拠点施設です。約400台分の駐車場を備え、訪れた方が路線バスに乗り換えて銀山地区や大森の町並み保存地区に向かう「パーク&ライド」の拠点でもあります。メインの展示室では、17世紀初めの「吹屋」(製錬所)や銀山最大級の坑道「大久保間歩(おおくぼまぶ)」の坑内などのさまざまな再現模型、CGを駆使した映像、出土遺物などの多彩な展示を通して、世界に影響を与えた石見銀山の歴史や鉱山技術など、世界遺産としての価値が深く理解できます。
供元:協同組合i-TAK
館内案内図
ユネスコ世界遺産登録書
日本海に面する島根県のほぼ中央にある「石見銀山遺跡とその文化的景観(いわみぎんざんいせきとそのぶんかてきけいかん)」は、
・ 石見で生産された大量の銀は、アジアだけでなくヨーヨッパ諸国との経済的、文化的交流をもたらしたこと
・採掘から精錬まで小規模で行われたことから、鉱山開発や銀生産にかかわる遺跡が良好に残されていること
銀鉱山にかかわる遺跡は、その集落も含め自然環境と一体となった文化的景観を形成し、環境に配慮し自然と共生した土地利用が今に伝えられていること
が評価され、2007年、文化遺産に登録されています。
石見銀山ガイドの会
平成19年7月、石見銀山は待望の”ユネスコ世界遺産登録”を果たしています。ガイドの会は、この登録を喜び、自分たちに託された役割を真摯に受け止めて活動しているようです。ガイドの主目的は、山陰の豊かな自然と溶け込みつつ、国内外の歴史に大きく関わる役割を果たした素晴らしい遺跡の有様を案内することだそうです。
渡辺家住宅
江戸時代の坂本家の居宅です。坂本家の祖、清左衛門は慶長9年(1604)、初代奉行大久保石見守により石見銀山附地役人に当用され、子孫も銀山経営に携わっています。現在の建物は寛政12年(1800)の大森大火後の文化8年(1811)に建てられたもので木造平屋建(一部2階)、切妻、桟瓦葺、外壁は塗屋造り、延べ床面積約223㎡、主屋背後には裏座敷(木造平屋建、切妻桟瓦葺)、土蔵(土造2階建、切妻、桟瓦葺)が配されています。敷地の廻りには塀や門が設けられ内部は6間取りで式台付の玄関や座敷など格式の高さが窺えます。渡辺家住宅江戸時代後期に建てられた旧銀山町に残る唯一の地役人住宅の遺構として貴重なことから平成14年(2002)に国指定史跡に指定されています。
大森小学校
大森小学校は、明治5年学制頒布による大学区110番大森小学校として開設され、明治36年大森町尋常高等小学校と改称しています。
下河原吹屋跡
発掘調査によって初めて発見された17世紀初頭(江戸時代初め)の銀精錬遺跡です。平成3年(1991)に発掘調査で発見され、日本に初めて伝えられた灰吹法で銀を取り出していたことがわかりました。吹屋とは製錬所の事です。
豊栄神社(とよさかじんじゃ)
豊栄神社は、慶応3年(1867)までは洞春山・長安寺という曹洞宗の寺でした。洞春とは元就の法号で、元就のことを洞春公とも呼んでいます。永禄4年(1561)に山吹城内に毛利元就が自分の木像を安置し、元亀2年(1571)には長安寺を建立し、木像を移したと伝えられています。
極楽寺
永禄3年に創立された浄土宗のお寺です。由緒の深い寺は昭和14年の大火で全焼しています。宮殿にあった青貝づくりの豪華天井も焼けて幻の天井として語り草となっています。16畳の広さがあり、あじろぎ(竹で編んだ下地)に黒漆、青貝の「枝垂桜」、「枝垂れ柳」、「桐」、「鶴亀」、「菊花」などが散りばめられ、研ぎ出し仕上げになっていたそうです。同寺は火災の後安立寺に合併して今日に至っています。
山吹城跡(やまぶきじょうあと)
標高414mの要害山山頂にあった城で、戦国群雄による石見銀山争奪戦の表舞台となりました。
清水寺
吉岡出雲墓
元は吉岡隼人と名乗り、毛利氏に仕えていましたが、徳川家康の石見銀山支配にあたり、大久保石見守に仕え代官として石見銀山はもとより伊豆、佐渡金銀山の開発にあたり功績を上げました。慶長6年(1601)に伊豆湯ヶ島に見分に出かけ、その時に授けられた「伝馬朱印状」は今も伝わっています。また、将軍、徳川家康に拝謁した際に「出雲」の称号を賜り、同時に拝領した「辻が花染丁字紋道服」は、国の重要文化財として東京国立博物館に収蔵されています。
副神山間歩
石見銀山御料銀山町年寄山組頭遺宅 高橋家」であり、「山組頭」とは鉱山の取締役で、坑夫の人事や物資の購入など銀山の稼方全般の諸事項を監督する役目をもっている。「山組頭」は、山師の中から2~3名任命される役職である
高橋家
石見銀山御料銀山町年寄山組頭遺宅 高橋家」であり、「山組頭」とは鉱山の取締役で、坑夫の人事や物資の購入など銀山の稼方全般の諸事項を監督する役目をもっている。「山組頭」は、山師の中から2~3名任命される役職であるが、山組頭の遺宅としては唯一のものとして県指定文化財となっている。高橋家は、代々銀山の町年寄、山組頭など、山方・町方の役人を勤めた家で、付属建物では酒造なども行なっていたという。また、屋敷の中には茶室も設けられている。
龍源寺間歩
龍源寺間歩は正徳5年(1715年)に開発され、石見銀山では大久保間歩に次ぐ大坑道として良質の銀鉱石が昭和18年(1943年)までの228年間掘り続けられています。
江戸時代の開掘の長さは約600mに及んでおり、坑道の高さは1.6m~2.1m、幅は0.9m~1.5mあり、ノミで掘った跡が当時のままの状態で全体に残っています。昭和44年(1969年)には他の銀山遺跡13ヶ所とともに「石見銀山遺跡」として国指定史跡(文化財)に指定されました。
大久保間歩
「間歩」とは鉱山の掘り口のことをいいます。「大久保間歩」は、初代奉行の大久保長安の名から名付けられた、石見銀山最大級の間歩です。江戸時代から明治時代にかけて開発され、その規模は他の間歩に比べて群を抜いています。坑内の高さは最大で5mあり、大久保長安が槍を持ち、馬に乗ったまま入ったという伝説があります。
龍源寺間歩
「龍源寺間歩」は1715年に開発された代官所直営の坑道で、大久保間歩に次いで長く600mもあります。正徳5年の開発で、他に永久、大久保、新切、新横相間歩とともに代官所の直営で「五か山」と呼ばれていました。「龍源寺間歩」は現在、唯一一般公開されている間歩です。内部はノミで掘った跡が当時のままの状態で残っており、当時の作業の様子を知ることができます。
坑道のことを山言葉で「間歩」とか「敷」(鋪とも書いた)、また「敷内」とか「山」とか言われています。掘子大工(鉱夫)たちは鉉(つる:鉱脈)を目当てに坑道を掘り進む。坑道の入口を「四つ留」といい、丸太の木を組んで土石の落ちるのを避けて安全な入口をつくりました。石見銀山では縦約1.8メートル、横幅1.5メートルの間歩入口に直径90センチ位の栗の丸太で四本柱を組んで四つ留としています。
御代官の代官所直営の五ヶ山(永久、大久保、龍源寺、新切、新横相間歩)の御用見廻りは年数回行われていた。御用見廻りは銀山附役人四・五人と供廻りの御仲間を二・三人つれての馬での巡見であった。御代官御見廻りの時には鏈上がり(鉱石の採れ高)の状況や坑内の様子などを四つ留役所の役人から事情説明を受ける習わしになっていたとの事であった。
山言葉で捨石のことを「柄山(がらやま)」といい、捨石(銀の含有が少ない石)を坑内から運び出す人夫のことを「柄山負」というが、この捨石を捨てる場所を「柄山捨場」と呼んでいました。この柄山捨場に良質の鏈(鉱石)が混じっていることから山内の女や童(子供)非番の人夫たちが鏈拾い(鉱石拾い)をするようになっています。
図の右側から柄山(捨て石)を荷負(背負う)って歩く人夫(柄山負)の姿や雁木という丸太梯子を用いたり、「打替」といって左右の横木を渡して踏台として歩いている姿が描かれている。
横穴留山の片側土の所へ立木を建てて横木を渡す図です。
掘子は鑽(タガネ)を鋏で固定し、鎚でたたき鉱石を掘っていました。暗闇・油煙・石塵の中でたいへんな労働である様子が伺えます。
掘子が鉱石をかますに入れて背負い運んでいました。せまい坑道の中をさざえの殻のランプの明かりだけがたよりだった訳です。
落盤防止のための坑木を組むのが留山師の仕事です。坑道内が崩れるのを防ぐ重要な仕事です。
深く掘れば水が湧きます。坑内の排水作業は鉱石を掘ること以上にたいへんな仕事でした。竹や角樋のポンプ、桶を使用したようです。
佐比売山(さひめやま)神社
栃畑谷にある神社で、鉱山の神「金山彦命」を祀てあります。当初は、金山姫命・埴山姫命・木花咲耶姫命の三柱の姫神を祀った姫山神社であったが、永享6年(1430)頃、周防の大内氏が石見国美濃郡益田村から金山彦命を勧請、合せて大山祇命をも祀って、五社大権現と称していたという。
鉱山を領有した大内氏、尼子氏および毛利氏により崇敬保護されたと言われています。
仁摩サンドミュージアム
仁摩サンドミュージアム(にまサンドミュージアム)は、島根県大田市仁摩町天河内にある砂の博物館です。仁摩町の国道9号線沿いに、突如大小6基の総ガラス張りのクリスタルな「ピラミッド」群が輝いています。大小6基の総ガラス張りのピラミッドが並ぶ、琴ヶ浜の「鳴り砂」をモチーフに造られた博物館です。昼は館内空間に陽光を導き、夜間はライトアップにより夜景を美しく彩り、幻想的です。ふるさと創生事業を活用し、平成3年3月3日にオープンしました。世界最大の1年砂時計『砂暦(すなごよみ)』が一際目立ちます。隣接のふれあい交流館では、ボヘミアンガラスの展示販売や、ガラス工房の創作体験を行っています。
TVドラマや映画化で話題になった少女漫画「砂時計」の舞台になった場所です。
仁摩町宅野は島根県中央部、日本海に面して位置し、宅野浦を有しています。古くから左官の出稼地として有名であったところです。
石見銀山が本格的に開発された大永6年(1526)頃から、採掘された銀鉱石はこの宅野や馬路から博多に積出されています。
温泉津温泉(ゆのつおんせん)は、島根県大田市温泉津町(旧国石見国)にある温泉です。港町でもある当地は「石見銀山遺跡とその文化的景観」の一部として世界遺産に登録されています。開湯はおよそ1300年前と伝えられる歴史のある温泉です。静かな落ち着いた町並みの続く温泉街には庄屋屋敷をはじめとした歴史ある建物が多く残っています。また、温泉津は中世から近代にかけて隆盛を極めた石見銀の輸出港であり、石見銀山と共に「石見銀山遺跡とその文化的景観」として、2007年に世界遺産に登録されました。「湯に浸かって傷を治している狸を見つけたのが始まり」という開湯のエピソードを持つここの温泉は薬効が高いことでも有名で、島根県内では唯一、全国でも僅か12ヶ所の最高評価「オール5」の温泉に認定(日本温泉協会)され、その素晴らしいお湯を求めて遠方からやってくる人達も多いそうです。外湯は「元湯泉薬湯」と「薬師湯」の二つがあり、源泉100%湧出したそのままのお湯を湛えています。1974年(昭和49年)公開の松竹映画「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」の舞台にもなってます。
温泉街
温泉津港から山側に伸びる温泉街は、賑やかな歓楽街などが見られず、鄙びた日本旅館が両側に立地する静かな街並みです。この古風な温泉街は2004年(平成16年)7月、「温泉津町温泉津伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。温泉津は当時中世~近代に隆盛を誇った石見銀の輸出港でもあったため、同港町は日本国内14例目の世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の登録を受けています
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沖泊
リアス式海岸の沖泊港は海が深く波が静かで、大型船の入港が容易だったため、主に16世紀前半の約40年間、銀の輸送や、銀山で使われる物資補給のため大型船が出入りしていた港です。毛利時代以降の銀の積出港・沖泊や元就が設けた水軍の根拠地の城塞・鵜の丸城の城跡は、当時、港を使って物資を運ぶ人々の活気で溢れていました。江戸時代には北前船の寄港地にもなり、船をつなぐ「鼻ぐり岩(はなぐりいわ)」がたくさん残り、中世の港の歴史的景観を今に留めています。
温泉津港
地方港湾温泉津港は、島根県のほぼ中央部に位置し石見銀山からの銀の積出港の1つとして栄え、江戸時代には北前船の寄港地として多くの物資が集められました。石見銀山からの銀の積出港の1つとして栄え、その名残を伝える遺跡も残っている港湾です。 現在でも、古くから当地方で産出する硅砂等の地下資源の積出港となっています。 温泉津港付近はリアス式海岸を形成し複雑で印象深い景観を造り出していると共に、水深が深く6.3mから21.6m、延長210m程ある為、3千トンクラスの船舶が係留することも出来ます。剥き出した岩塊の岩肌には横向きの丸い穴が開けられ、船が係留する時に縄を通した名残が点在し、往時は温泉津湾には400余(現在は200余)の鼻ぐり岩があったと云われています。現在では往時程の賑わいはありませんが温泉津鉱山で産出される硅砂の積み出し港として機能しています。この硅砂は鋳物用やガラスの原料として利用され日本国内では最上級とされています。